2011年度 (社)浦添青年会議所 理事長所信(案)
理事長

~青年期という限られた期間にどれだけの「特定されない義務」を見出し、
一人ひとりの善意を集結させ大きな力に変えて取り組むか、
必要とされる人が集う組織、それが社団法人浦添青年会議所です~

はじめに【成長と環境】

 私は1973年4月9日三男一女の末っ子として生まれた。父親はどちらかというと無口で社会に出てから会話が増えはじめ、率直的に頭の良い器用な人で私が尊敬する人である。母親は決め事や約束事、特に礼儀や作法に厳しい人だった。傍から見ればごくごく普通の家庭に見えたかもしれないが、私が小学校2年生になった頃から母親が仕事をしていることに気付いた。夜遅くから早朝までビルの清掃業、それを終えると琉球人形を作るパートや飲食業のパートなど一日に3ケ所から4ケ所の仕事を掛け持ちして私たちには知られないようにしながら家計を切り盛りしていた。そんな環境で育だったせいか、早く社会人になり「自分で稼いで自立する」という気持ちが強く、周りの友人とは異なり進学という選択肢はまったく考えず本土への就職のみを考えていた。

社会人として【反骨心】

 印刷業に就職が決まり上京したが1年で帰沖して当時の郵便局で非常勤としてしばらく過ごし、イベント業や食品卸業、常備薬販売業と職を転々として何の目的もなく漠然とした考えで再び上京して400名ほどの作業員を擁す建設業に身を置いた。その職を業会では鍛冶屋と呼んでいた。新入りの仕事というのは雑用しかなかったと同時に何も教えてもらえなかった。段取りが遅いと年配の人に工具で殴られ、技術のない私に「給料泥棒」と心ない言葉を発し屈辱的な行為をする人もいた。それでも仕事が長続きしない自分の短所を克服することと両親に迷惑と心配をかけたくないという気持ちが重なり結果を出すまでは辞めないことと沖縄には帰らないと自身に約束しながら、一方で「今に見ていろ」という反骨心が芽生えていた。そんな時、県出身の棟梁と出会い同郷ということで可愛がって もらい技術も教わった。多くの現場で経験を重ね作業資格を取得し自分なりに必死にがんばった。出稼ぎで日雇いの作業員から約2年、現場を任される棟梁、すなわち一人前の鍛冶屋になった。私を育ててくれた棟梁も喜んでくれたがそれはグループから離れる意味でもあった。2002年FIFA日韓ワールドカップの決勝戦会場となった横浜国際総合競技場や東京湾アクアラインのパーキングエリア海ほたるの建設に携わりたくさんの経験を積み自身もこれが天職と信じていた。順風満帆と思える毎日に突然衝撃が走った。それはかつて共に働いた同僚の作業中の事故死だった。茫然としてただただゆっくりと時間が過ぎていたことだけを覚えている。

かけがえない人生【二度と戻らない時間の意味】

 今一度、自身を見つめ直すため区切りをつけて帰沖した。実家に身を置き厳しかった両親もすっかり年を取り母は体を悪くしており入退院を繰り返し週に2回の人工透析を行っていた。営業職につき出勤前に母を病院へ送ることが日課となっており、いつものように病院手前の信号で「ここで降りるから」という母に「信号が変わるから急いで」という自分、「ありがとうね」と言って背を向けたまま手を振って病院入口へ小走りで向かう母、朝のいつもの光景だった。正午過ぎ兄から電話があり「母ちゃんの容体がおかしいから病院に来てくれ。」と連絡が入った。病院へ向かうと集中治療室にいる母に面会した。細く小さな声で「仕事は終わったの」と聞いてきた母に対してただうなずくだけだった。部屋を出てしばらくすると母の容体が急変した。医者から「ご親族の方に連絡をした方がいい」と言われた時、手術室のいる母に心臓マッサージを施していた。どのくらいの時間が経過したかは覚えていない。母が死んだ。あまりにも突然のことで涙すら流れなかった。今朝も元気だったのに、小走り出来るほどだったのに、朝の会話が最後になるとは思ってもいなかった。二度と戻らない時間がその意味を私に教えてくれた。何一つ孝行することができなかった。

起業への志【一度限りの人生】

 人生や生と死についてこれまで以上に考えさせられることとなり、長く自身の隣にいてくれた人と一緒になることを決意すると同時に、これまで多くの人との出会いや繋がりなど種々にわたる機会に恵まれる時期でもあった。これまでの経験と具体的には示せない勢いが合わさり起業することが夢から現実的な形を帯びていた。幼い頃の「自分で稼いで自立する」とはこのことだったのかもしれない。起業するために本を買い込み読みあさり、いざ起業はしたものの希望に満ちた状況とは全く逆の険しく厳しい道のりの連続で、毎日微々たる売り上げしか物が売れず給料どころか貯金が底を突くのも時間の問題だった。開業した最初の月の売り上げが6万円強だったことを思い出すと今でも怖くなる。しばらくして生活を賄うためにコンビニエンスストアのアルバイトを始めた。昼は自営業、夜はアルバイト、どのくらいの期間を過ごしただろうか、想い描いた裕福や贅沢とは程遠い所に位置していた。それでもモチベーションは失うことなく1年が経った頃にはアルバイトはしなくても良いほどになってはいたが経営の厳しさに変わりはなく、歯を食いしばり何とか資金繰りして仕事を切り盛りしていた。

地域の若きリーダー【青年会議所との出会い】

 以前働いており現在は取り引きさせていただいている会社の方から、今後の為になるから話を聞いてみないかということで、何のことか知る由もなく会社を訪問した。多くの起業家が集い異業種の情報交換の場があるとのことでJCへの入会を誘われた。正直言うとまったく興味がなく特に時間とお金を割くことに違和感もあり、その時間さえ仕事に費やしたいほどだった。しかし、お世話になっていると同時に応援いただいているという理由から申し出に沿うことで日頃の恩義は返したかった。私は2005年に356番目の会員として社団法人浦添青年会議所へ入会させていただいた。入会当時を振り返ると組織は理念に基づき計画の通り整然と事業がなされる様子に強い統制力を感じ、その背景には昼夜問わず委員会が招集され熱く議論が交わされる姿に熱意を感じ、初めて役割を与えていただいた際には浦添JC特有の厳しくも優しい組織の集いに触れることで初めて組織の一員になれたと感じたことが今でも懐かしく思い出される。入会前には考えもしなかった社会情勢の動向や多くの懸案を抱える国の在り方など、JC運動を通して関わりを持つ事で社会の将来を創造するのは青年である我々の責任と感じるまでに至った。1971年11月12日、熱い志を持った30余名の青年達によって浦添の地にJCの灯がともり、その情熱は燃え続け昨年創立40周年という節目の年を迎えた。我々は長きに亘る歴史に安堵することなく、めまぐるしく変化する情勢をいつの時代も正しい見識で、取り上げる諸問題に対して解決の糸口を切り開き先見のまなざしで時代を見据えて行動する“地域の若きリーダー”でなければならない。

意識改革【特定されない義務】

 会員の能力を高め創出するために、これまで多くの事業やセミナーを通して“ひとづくり”が行われており、これからも日本JC及び地区・ブロック両協議会によるプログラムや浦添JCも地域と共助した独自プログラムの立案など、あらゆる事業推進が考えられるが実際に本質を見極め昇華させようと働きかけているJAYCEEは少数にすぎず、我々はそれを「運営した」や「参加した」あるいは「受講した」という事で終えているように思える。我々に求められていることは、“特定のされない義務”を自発的に見出しそれに対してどれだけ自身から踏み入り率先して関わりを持てるかということに日々研鑽を積むこと、それこそが意識の改革であり、それが自然発生的な運動展開を創りだし、更には真の自立性が創出されると考えている。

強い組織力【会員拡大から会員増強へ】

 浦添青年会議所が誕生して40年間唯一継続して取り組んでいる活動が“会員拡大”である。JCはいつの時代も組織を若々しく保つために20歳から40歳までの活動期間という独特の規定を設けている。それが意味することは会員拡大を怠れば組織は衰退してしまうということである。常に新陳代謝させ活力ある組織を維持させ続け発展させるためには会員拡大活動が最も重要である。JCという組織でのみ養える“ひとづくり”の魅力を発し理解するとともに「拡大」から「増強」へと進化を目的としたビジョンを見出したい。また、これから出会う同志に対しても指導や育成のみならず新鮮な対話を通して、我々自身が新しい発想や創造を取り入れる活力を生み出し、それが組織の更なる進化に結びつき、ひいては新たなる浦添JCのブランディングを創出させる契機としたい。我々が活動拠点とする浦添市は平均年齢がとても若い街としても知られている。また、近隣の街にも多くの品格ある青年が存在している。浦添JCの更なる発展に寄与すべく多くの青年との出会いを求め、何気なく過ごす日常も忘れられない宝物とするために一生付き合っていける同志と巡り合う事を共に希求しよう。

新しい浦添JC【立ち「位置」と存在「価値」】

 「新」という字は「立つ木に斤を入れる」と書く。これは今までのことを否定することではなく「今あるものに変化を加え、更に良くなることを目的としてアイディアを加える」ということである。これまで受け継がれてきた英知を伝承しながらも「次代を予見」し「時代に調和」した取り組むべき課題を掲げ活動することも“新しい”運動展開といえる。JC以外にも様々な目的を持った団体が多く存在し活動を行っている。時代背景を鑑みながらJCだからこそ出来得る事業を見出すことも課題として注力しなければならない。それを成し遂げることで対内外へ安定的なコミットメントを見出すことができる。対内的には日本JC及び地区・ブロック両協議会へ優秀な人材を出向させると同時に沖縄県内各地青年会議所に対しては共助しながらも時に切磋琢磨させていただき浦添青年会議所の「位置」を示し、対外的には行政はもとより企業や各種団体、そして何より市民から“役に立つ存在”として地域から必要とされる「価値」を示さなければならない。

公益性と透明性【JC運動の在り方】

 2013年11月末を最終期限として公益社団もしくは一般社団へ法人格を移行しなければならない。2011年公益社団法人格の移行を決断し、会員の総意を持って現在資料の精査を行い提出に向けて取り組んでいるが、これは単に移行することを目的とせずこれまで以上に公益性に溢れ透明性のある運動展開を行うことに整合意識をもって取り組み、住み暮らす社会、市民に対して徳が溢れ多くの益を創出するためにはJAYCEEとして無償の役務、すなわち特定のされない義務を提供し続けなければならないという事である。

ゆいまーる【復興とは人】

 復興とは人と人の関わりであり、人と人との想いであり、人と人との絆である。2011年3月11日14時46分ごろ、三陸沖を震源に国内観測史上最大のM9.0の地震が発生し、日を追うごとに甚大な被害が伝わり多数の死傷者と行方不明者を出した東日本大震災。その日は福岡から熊本に向かう車両の中で何の情報もなく、取り引き先の窓口のテレビに映るコンビナートの火災映像と右隅に津波の大きさを示す赤や黄のマーカーが日本列島を覆うように点滅している異様な光景だった。3月13日に対策本部、後のゆいまーる行動隊が緊急に招集され人的支援、物資支援、義捐金支援の部会を設置し4月12日から6月12日まで被災地での役割を継続的に引き継ぎながら岩手県陸前高田市での支援活動を行った。現地に足を踏み入れその光景を見た責任として「被災地」ではなく「ふるさと」のあるべき姿を取り戻す日まで未来永劫忘れてはならない。遠く離れた沖縄から出来得る支援とJAYCEEとして災害に対する知識を高め、日頃からの自助努力の推進と減災という概念を養う事を会員の皆様と考えると同時に日本JC及び地区・ブロック両協議会が推進する協働運動・LOM重点依頼運動に能動的かつ率先して取り組んでいきたい。

激動の時代【時代を預かる責任】

 我々はバブル経済の崩壊とともに社会に出た世代であり、阪神淡路大震災、非人道的問題、世界金融危機、東日本大震災やそれに伴う原発問題などの出来事をリアルタイムに経験した世代である。幾度となく訪れる社会的不安に対して「戦後最悪」や「100年に一度」、「想定外」や「未曽有」といった解決策を持たないが故に言い訳とも受け取れる言葉が横行し事の重大さと言葉の持つ意味があまりに乖離しているように思える。また、情報化社会による高度デジタル化やSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)により、いつでもどこでも多様な情報を手に入れることができる昨今、急激に進展し溢れ出る情報に対して時代を預かる責任世代として客観的かつ正しく見極め、いつの時も適切に状況判断できる凛然としたJAYCEEでありたい。

結びに【JC運動の源泉は情熱 ~馳せる想い絶え間なく~】

私はJCが熱意や情熱、そして友情という青臭い言葉を公に対して堂々と発する事のできる唯一の団体だと思っている。職場では経営者や重役を担っていても世間ではまだまだ若造と見られる世代である。ならばそれを逆手にとり失敗を恐れない青臭さ、泥臭さ、青年だからこそ溢れ出る発想を全面に出して行きたい。「JC運動の源泉は情熱 ~馳せる想い絶え間なく~」時代を預かる責任世代として、明るい豊かな社会の実現にむけて、創立50周年、言い換えれば創立半世紀という新たな節目へむけて、これからも長く続く浦添JCの運動の歩みに対して2012年という年をしっかりと歴史に刻み込むべく改めて創始の想いに立ち返り会員の皆様よりいただいた信頼と負託という重責に対して、決意と覚悟を持って理事長を仰せつかるものとして1年間しっかりと演じ責任を果して行きたい。

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